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おもちゃ作家の歩む道
おもちゃ作家として生きていく。おもちゃを通したものづくりは、あらゆる世代を超えてこれからの時代を作る礎になる。
子ども頃にあった未来に対する希望。
大人になった今はどうだろうか。
人はいつの時代も次世代へ繋ごうと生きる。
輝かしい良い未来の為に。
幼少期とゲーム
色々なおもちゃを作っているのだから、幼少期から手作りおもちゃなどを沢山作っていたのだろうと思われるかも知れませんね。
しかし、私はバリバリのゲームっ子でした。住んでいたのは札幌の手稲という場所。都心から離れているけど、そこまで過疎じゃないような町です。割りと山に近い位置に住んでいたので、そこそこの自然はあり、外遊びにもよくいきました。
それでも、当時の私を夢中にさせたのはTVゲーム。5歳の頃にはスーパーファミコンのスーパーマリオやドンキーコングなどでに夢中になっていました。ゲームが好きなのはいくつになっても変わらず今でも好きです。だから、今の子ども達がDSにハマったり、公園でゲームをしているという感覚もなんとなくよくわかります。苦笑
でも、そんな幼少期を過ごしてきたものですから、大人になり「保育士」として働き始めてから知る遊びや製作する楽しさを知ることも多く、それが初めて出会う“遊びの喜び”だったんです。こういう遊びを子どもの頃に体験したかったな・・という想いも同時に湧き上がります。今のモノ作りの根幹はそうした反動からきているのかも知れません。自分のような大人はこれからも増えていくだろうし、こうした幼少期体験を過ごしてきた大人が色々な物事を通して増えてきているように感じます。
私のように保育士という道を志しながらも、幼少期の遊び体験が足りない!という方は今後増えていくでしょう。そうした事を考えていくと、子どもに限らず大人にも遊びの楽しさをアナログなおもちゃを通して感じて欲しいという想いが今の自分を突き動かします。
しかし、私はバリバリのゲームっ子でした。住んでいたのは札幌の手稲という場所。都心から離れているけど、そこまで過疎じゃないような町です。割りと山に近い位置に住んでいたので、そこそこの自然はあり、外遊びにもよくいきました。
それでも、当時の私を夢中にさせたのはTVゲーム。5歳の頃にはスーパーファミコンのスーパーマリオやドンキーコングなどでに夢中になっていました。ゲームが好きなのはいくつになっても変わらず今でも好きです。だから、今の子ども達がDSにハマったり、公園でゲームをしているという感覚もなんとなくよくわかります。苦笑
でも、そんな幼少期を過ごしてきたものですから、大人になり「保育士」として働き始めてから知る遊びや製作する楽しさを知ることも多く、それが初めて出会う“遊びの喜び”だったんです。こういう遊びを子どもの頃に体験したかったな・・という想いも同時に湧き上がります。今のモノ作りの根幹はそうした反動からきているのかも知れません。自分のような大人はこれからも増えていくだろうし、こうした幼少期体験を過ごしてきた大人が色々な物事を通して増えてきているように感じます。
私のように保育士という道を志しながらも、幼少期の遊び体験が足りない!という方は今後増えていくでしょう。そうした事を考えていくと、子どもに限らず大人にも遊びの楽しさをアナログなおもちゃを通して感じて欲しいという想いが今の自分を突き動かします。
おもちゃ作家で生きる
■おもちゃ作家で生きる2023.3.7
2023年はアトリエ開業2年目。基本的には毎週日曜営業という形を取っていたが、インスタやテレビ出演が続き、有り難いことにあっという間に年内満席という状況になった。常にキャンセル待ちという状態が続き、多くの人にアトリエが認知され、特に子育て世帯のニーズが多く、社会貢献ということを考えても意義があると感じる瞬間は多かった。保育士として働きながらおもちゃ作家をしているということをメディアで度々取り上げられることも多く、“二刀流”という表現で紹介してもらうこともあった。なんだか聞こえが良いような気もするが、フルで働いていた訳ではないので、なんだか中途半端に映っているのではないか?と思う事も多かった。今は色々な働き方があって良い時代だと思うが、それでも1つのことに絞って真摯に取り組み続ける時の熱量は、分散的な仕事量を圧倒することを体感的に知っている。
満席状態が続き、キャンセル待ちになっていく中で‟次の営業日について”や‟営業日数を増やさないのか?”などと質問を沢山頂いた。おもちゃ作家として自立するということは作家を志した時から考えていたことだが、世の中のおもちゃ作家の生き方をみていると、おもちゃ作家1本でやっている人もいれば、副業をしながらやっている人もいるし、そもそもおもちゃ作家というよりは経営者としておもちゃを製造の委託をして、プロデュース業の方に回っている人もいる。まさに十人十色で自分がこれだ!という業界のモデルみたいな物が見付かりにくいジャンルだ。でも、恐らくはそれぞれの作家が同じような悩みを抱えていて、自己流のやり方を切り開いた結果そうした幅広い働き方になっていたのではないかと思われる。
上記の様々な働き方を考えていくとおもちゃ作家1本でやるという事は、なんとなくうまくいくだろうという甘い考えでは出来ない。収益が具体的にどう上がり、どんな人に何をどんなふうに届けたいのかを考えていかなければならない。作家活動を始めた頃のおもちゃ作家のイメージは、日々生産的におもちゃを作っていくようなイメージだった。しかし、今はモノが売れる時代ではなく、むしろモノが溢れており、ミニマリストのようになるべくシンプルに消費しない思考になっている人も少なからずいる。だから、前時代的な大量生産をしてどこかのおもちゃ屋に卸して少ない利益をあげるというやり方には、これからは無理があるように感じていた。
アトリエを立ち上げる時、時代の中で重視される消費行動として、その人の“体験”がベースになっているように感じていた。その為、今は「ビー玉遊び体験」という体験ができるエンタメ空間として、多くの人に足を運んで頂いているというような体験をベースに、ビー玉をコンセプトにしたおもちゃ販売をしている。ただ、当初は自宅兼アトリエとしてどこまで公開するか正直迷ったし、内心どこまで人に受け入れられるのかは手探りな状態でもあったから、開業1年目は少し迷いもあった。だが、2023年多くの人が足を運んでもらいアトリエの価値が今の時代の中でどう教育的価値を秘めているのかを感じると共に、自分のこの生き方が世の中に役立っているという瞬間がとても増えた。もっと多くの人がビー玉や木の魅力を感じ、ものづくりの面白さを体感し、人と人との偶然出逢う触れ合いを楽しみ、時にのんびりと空間に癒されて欲しい。そして、より多くの人にそうした想いを直接的に届けていきたいと思うようになった。
だから、保育士を辞めておもちゃ作家だけの道を歩みだそうと思う。
2023年はアトリエ開業2年目。基本的には毎週日曜営業という形を取っていたが、インスタやテレビ出演が続き、有り難いことにあっという間に年内満席という状況になった。常にキャンセル待ちという状態が続き、多くの人にアトリエが認知され、特に子育て世帯のニーズが多く、社会貢献ということを考えても意義があると感じる瞬間は多かった。保育士として働きながらおもちゃ作家をしているということをメディアで度々取り上げられることも多く、“二刀流”という表現で紹介してもらうこともあった。なんだか聞こえが良いような気もするが、フルで働いていた訳ではないので、なんだか中途半端に映っているのではないか?と思う事も多かった。今は色々な働き方があって良い時代だと思うが、それでも1つのことに絞って真摯に取り組み続ける時の熱量は、分散的な仕事量を圧倒することを体感的に知っている。
満席状態が続き、キャンセル待ちになっていく中で‟次の営業日について”や‟営業日数を増やさないのか?”などと質問を沢山頂いた。おもちゃ作家として自立するということは作家を志した時から考えていたことだが、世の中のおもちゃ作家の生き方をみていると、おもちゃ作家1本でやっている人もいれば、副業をしながらやっている人もいるし、そもそもおもちゃ作家というよりは経営者としておもちゃを製造の委託をして、プロデュース業の方に回っている人もいる。まさに十人十色で自分がこれだ!という業界のモデルみたいな物が見付かりにくいジャンルだ。でも、恐らくはそれぞれの作家が同じような悩みを抱えていて、自己流のやり方を切り開いた結果そうした幅広い働き方になっていたのではないかと思われる。
上記の様々な働き方を考えていくとおもちゃ作家1本でやるという事は、なんとなくうまくいくだろうという甘い考えでは出来ない。収益が具体的にどう上がり、どんな人に何をどんなふうに届けたいのかを考えていかなければならない。作家活動を始めた頃のおもちゃ作家のイメージは、日々生産的におもちゃを作っていくようなイメージだった。しかし、今はモノが売れる時代ではなく、むしろモノが溢れており、ミニマリストのようになるべくシンプルに消費しない思考になっている人も少なからずいる。だから、前時代的な大量生産をしてどこかのおもちゃ屋に卸して少ない利益をあげるというやり方には、これからは無理があるように感じていた。
アトリエを立ち上げる時、時代の中で重視される消費行動として、その人の“体験”がベースになっているように感じていた。その為、今は「ビー玉遊び体験」という体験ができるエンタメ空間として、多くの人に足を運んで頂いているというような体験をベースに、ビー玉をコンセプトにしたおもちゃ販売をしている。ただ、当初は自宅兼アトリエとしてどこまで公開するか正直迷ったし、内心どこまで人に受け入れられるのかは手探りな状態でもあったから、開業1年目は少し迷いもあった。だが、2023年多くの人が足を運んでもらいアトリエの価値が今の時代の中でどう教育的価値を秘めているのかを感じると共に、自分のこの生き方が世の中に役立っているという瞬間がとても増えた。もっと多くの人がビー玉や木の魅力を感じ、ものづくりの面白さを体感し、人と人との偶然出逢う触れ合いを楽しみ、時にのんびりと空間に癒されて欲しい。そして、より多くの人にそうした想いを直接的に届けていきたいと思うようになった。
だから、保育士を辞めておもちゃ作家だけの道を歩みだそうと思う。
「工作芸術空間 アートギャラリー」構想の立ち上げと教育的意義を考える。
■ 「工作芸術空間 アートギャラリー」構想の立ち上げと教育的意義を考える。 2023.3.7
昨年は"marble machine wall2”が完成してから、インスタやテレビで話題になり、大きな反響と共に色々な人がアトリエに足を運んでくれるようになった。足を運んでくれた人の反応は様々で、世界観を楽しんでくれる人、夢中になって遊び込んでくれる人、涙を流す人もいた。自分が作ったものが色々な人の心に届いていくことに日々やりがいを感じた。ただ、アトリエは全体的にファンタジーの世界であり、これが実際の生活にどう直結していくのかという部分がずっと引っ掛かっていた。確かにアトリエの世界に触れること自体が多くの人にとっての刺激になり、何かの活力になっていくのかも知れない。だが、教育的な意義をよくよく考えた時にそれはただの一過性として過ぎ去っていくものだとしたら、ただの流行りのエンタメで終わる気がした。そうしたことを昨年の5月頃から考え始めて、アトリエのファンタジー溢れる世界観とは真逆のリアリティのある世界観を作ろうと思った。それがアートギャラリー構想のはじまりである。
アトリエのコンセプトがビー玉中心の世界観とするなら、アートギャラリーのコンセプトは‟手業として残る工作体験”である。手業というと堅く聞こえるかもしれないが、簡単に言ってしまえば手を使ったものづくりは全て手業だ。ただ、一般的に手業は伝統工芸で使われることが多いので、‟てしごと”とした方が聞き馴染みがあるかも知れない。
冒頭で述べたアトリエにおける教育的意義を考えると、そうした実になる体験は「木のロボットをつくろう」などのワークショップがあるが、やはりそれもある程度こちらで用意されたものを組み立てていくというものになっているので、生み出すという行為自体としては軽い。他のビー玉遊び物に教育的意義としての要素があるかを考えると、マーブルマシンは回す行為を自身で行っているものの、何かを生み出しているわけではないので、エンタメとしては面白いが、半受動的な要素が強いのである。
こうしたことを保育士をしながら日々アトリエを運営していくと、子どもとのやりとりの積み重ねが人の成長へ繋がっていく事を保育者として日々実感しているが故に歯がゆい思いを感じていた。一見すると、煌びやかで素敵な空間を作っているように見えるかも知れないが、そうした側面を考えるとアトリエで過ごす自分の行いは虚無的なものではないかと怖くなることすらある。おもちゃ作家として独りよがりにおもちゃやエンタメを作り続けたい気持ちと教育者として自分がアトリエにどう価値を見出していくことが必要なのかを考え続けた。その答えがアートギャラリー内で行う‟自由工作体験”であり、そこは自分の作家としての要素というよりも、ものづくりをもっと好きになりたい人に向けたキッカケ作りの場であり、デジタルの進歩が目まぐるしい時代だからこそアナログなおもちゃに触れるだけでは現代は既に足らず、本質的な自らの手で作り出す“手業”という行為が必要不可欠ではないかと思う。なぜなら、日常の生活で失われつつある行為だから、、である。
昨今、デジタルの普及と進化で驚くことが増えてきた。大人はどんどん新たなテクノロジーを使い日々の生活を豊かなものしていくが、反対に子ども達にとって教育の在り方を考えていくと思う所が多い。子どもの屋外によるあそび場の減少、ゲーム・スマホ依存、顧問不足による部活動の廃止、不登校児数過去最多などなど、数十年前から世の中にあった社会問題も新たな社会問題もアトリエを運営してから、色々な人との出逢いの中で良く見えるようになった。
どの問題も直接的に自分が変えられる問題ではないのかも知れない。それでも間接的な繋がりの連鎖がアトリエで関わる色々な人を介して見えるようになった。アトリエに来るのはほとんどが家族連れなので、それぞれの子どもに対する関わりで子育て観も見えてくるし、子どもにとってビー玉のおもちゃで楽しいひと時を送って欲しいと思う親心も傍で感じる。そして、同時に閉塞した時代感の中で元気を取り戻しにきたようにも見えてしまう。単にエンタメとして楽しみたいという家族がいる一方で、様々な社会背景からアトリエの場を必要としていることにも気付いてしまった。遊びに来てくれたお母さんの中で「色々とあそび場はあるけれど、あえて大型施設よりもアトリエの方が断然良いよ」と言ってくれるお母さんがいた。嬉しかった。だが、その発言をした真意をよく考えると、親にとっても心の癒しが必要で子どもを遊ばせるにしても教育として確かに価値のあるものに意味があると思っているのではないかと思う。現代は教育リテラシーがある人が増えてきているのかも知れない。
多様な人が世の中に存在し、情報化社会の中でより可視化されるようになり、発言の根拠(エビデンス)を求められることが当たり前。SNSなどで必死に情報を出し合う日々。どこか遊びに行くと人々は写真にその時の撮れ高をスマホで撮影し、満足する。自分も当たり前になったこの状況を今一度考えないといけない。本来、その時々の出来事はスマホに納めるものではなく、その人の心に収めるものである。アトリエは色々と普段は見ないような世界観なので写真に納めたくなる気持ちもわかる。SNSの拡散は大歓迎!だが、やはりそこも冒頭で述べた一過性のエンタメで終わって欲しくない願いがあるので、お客さんとやりとりしたり、遊びを伝えたりする中で心から何かを感じてもらい、その人の人生の中で大事な瞬間であって欲しいと思う。そうした心のやりとりが教育的価値なのではないだろうか。
昨年は"marble machine wall2”が完成してから、インスタやテレビで話題になり、大きな反響と共に色々な人がアトリエに足を運んでくれるようになった。足を運んでくれた人の反応は様々で、世界観を楽しんでくれる人、夢中になって遊び込んでくれる人、涙を流す人もいた。自分が作ったものが色々な人の心に届いていくことに日々やりがいを感じた。ただ、アトリエは全体的にファンタジーの世界であり、これが実際の生活にどう直結していくのかという部分がずっと引っ掛かっていた。確かにアトリエの世界に触れること自体が多くの人にとっての刺激になり、何かの活力になっていくのかも知れない。だが、教育的な意義をよくよく考えた時にそれはただの一過性として過ぎ去っていくものだとしたら、ただの流行りのエンタメで終わる気がした。そうしたことを昨年の5月頃から考え始めて、アトリエのファンタジー溢れる世界観とは真逆のリアリティのある世界観を作ろうと思った。それがアートギャラリー構想のはじまりである。
アトリエのコンセプトがビー玉中心の世界観とするなら、アートギャラリーのコンセプトは‟手業として残る工作体験”である。手業というと堅く聞こえるかもしれないが、簡単に言ってしまえば手を使ったものづくりは全て手業だ。ただ、一般的に手業は伝統工芸で使われることが多いので、‟てしごと”とした方が聞き馴染みがあるかも知れない。
冒頭で述べたアトリエにおける教育的意義を考えると、そうした実になる体験は「木のロボットをつくろう」などのワークショップがあるが、やはりそれもある程度こちらで用意されたものを組み立てていくというものになっているので、生み出すという行為自体としては軽い。他のビー玉遊び物に教育的意義としての要素があるかを考えると、マーブルマシンは回す行為を自身で行っているものの、何かを生み出しているわけではないので、エンタメとしては面白いが、半受動的な要素が強いのである。
こうしたことを保育士をしながら日々アトリエを運営していくと、子どもとのやりとりの積み重ねが人の成長へ繋がっていく事を保育者として日々実感しているが故に歯がゆい思いを感じていた。一見すると、煌びやかで素敵な空間を作っているように見えるかも知れないが、そうした側面を考えるとアトリエで過ごす自分の行いは虚無的なものではないかと怖くなることすらある。おもちゃ作家として独りよがりにおもちゃやエンタメを作り続けたい気持ちと教育者として自分がアトリエにどう価値を見出していくことが必要なのかを考え続けた。その答えがアートギャラリー内で行う‟自由工作体験”であり、そこは自分の作家としての要素というよりも、ものづくりをもっと好きになりたい人に向けたキッカケ作りの場であり、デジタルの進歩が目まぐるしい時代だからこそアナログなおもちゃに触れるだけでは現代は既に足らず、本質的な自らの手で作り出す“手業”という行為が必要不可欠ではないかと思う。なぜなら、日常の生活で失われつつある行為だから、、である。
昨今、デジタルの普及と進化で驚くことが増えてきた。大人はどんどん新たなテクノロジーを使い日々の生活を豊かなものしていくが、反対に子ども達にとって教育の在り方を考えていくと思う所が多い。子どもの屋外によるあそび場の減少、ゲーム・スマホ依存、顧問不足による部活動の廃止、不登校児数過去最多などなど、数十年前から世の中にあった社会問題も新たな社会問題もアトリエを運営してから、色々な人との出逢いの中で良く見えるようになった。
どの問題も直接的に自分が変えられる問題ではないのかも知れない。それでも間接的な繋がりの連鎖がアトリエで関わる色々な人を介して見えるようになった。アトリエに来るのはほとんどが家族連れなので、それぞれの子どもに対する関わりで子育て観も見えてくるし、子どもにとってビー玉のおもちゃで楽しいひと時を送って欲しいと思う親心も傍で感じる。そして、同時に閉塞した時代感の中で元気を取り戻しにきたようにも見えてしまう。単にエンタメとして楽しみたいという家族がいる一方で、様々な社会背景からアトリエの場を必要としていることにも気付いてしまった。遊びに来てくれたお母さんの中で「色々とあそび場はあるけれど、あえて大型施設よりもアトリエの方が断然良いよ」と言ってくれるお母さんがいた。嬉しかった。だが、その発言をした真意をよく考えると、親にとっても心の癒しが必要で子どもを遊ばせるにしても教育として確かに価値のあるものに意味があると思っているのではないかと思う。現代は教育リテラシーがある人が増えてきているのかも知れない。
多様な人が世の中に存在し、情報化社会の中でより可視化されるようになり、発言の根拠(エビデンス)を求められることが当たり前。SNSなどで必死に情報を出し合う日々。どこか遊びに行くと人々は写真にその時の撮れ高をスマホで撮影し、満足する。自分も当たり前になったこの状況を今一度考えないといけない。本来、その時々の出来事はスマホに納めるものではなく、その人の心に収めるものである。アトリエは色々と普段は見ないような世界観なので写真に納めたくなる気持ちもわかる。SNSの拡散は大歓迎!だが、やはりそこも冒頭で述べた一過性のエンタメで終わって欲しくない願いがあるので、お客さんとやりとりしたり、遊びを伝えたりする中で心から何かを感じてもらい、その人の人生の中で大事な瞬間であって欲しいと思う。そうした心のやりとりが教育的価値なのではないだろうか。
■解放の予感
■解放の予感 2023.3.8
保育士を辞めることを決めたことで、同じ業種の知り合いは「保育士をやってるからこそ得られたものもあるんじゃないの?」という声も挙がる。実際、それはその通りで日々の子どもの触れ合いから思いもよらないアイデアが閃いたりすることもあるし、子どもの年齢に応じた遊びの考察も日々の保育の中で出来る。しかし、その点であればアトリエ営業日に同じように子どもが来店した時に、試しに遊んでもらったり、どうアトリエの中で遊び過ごしているのかを考え、より遊びやすく面白い空間としてアトリエを進化させていく方が面白いと感じていた。だから、保育士を辞めるということに後悔はない。子ども達と会えなくなるという感覚もあまりなく、お客さんとして来ている家庭も沢山いるので、今後もまた会える。そして、幼少期だけの一過性の関係ではなく、小学生〜大人になるまでの関係になっていくのかも知れない。そういう人と人との関係が僕は大事だと思う。これからも何か辛くて困ったときの信頼できる大人の一人で在りたい。
おもちゃ作家だけで仕事をしていくことを考えると、完全に自営業になるので金銭的に不安な要素はなくはないが、それよりも今まで保育士として働いていた全ての時間が自分の作家の時間として使えると思うと楽しみでならない。(もちろん、事務作業もあるけれど)ふとした時に出てきたアイデアが山のようにあり、実現すれば面白いだろうな、というものが頭の中に散りばめられている。だけど、どれもそれなりに時間の掛かるものだから、壁面ビー玉転がし"mmw2 "のようにエンタメ要素で多くの人に届くものから順に優先的にものづくりをしてきた。しかし、4月からはそれが解禁されると思うと、、自分の限界に挑戦してみたくなるようなストイックな気持ちが疼く。働きやすさでいくと、保育士と兼業しているときよりも1本に絞った方が正直楽なのではないかと思う。
今までも本気でやってきたが、自分はまだまだこんなものじゃないと思う。それは自分に対する期待でもあり、自分にプレッシャーを掛けることでもあるが、その気持ちの根底は、全然形に出来てないアイデアを形に出来た時のイメージが沢山あるからだ。
2024年は自分の形に出来なかったアイデアをどんどん解放する。
思わず心が躍るようなおもちゃやモノを形にしていく。
保育士を辞めることを決めたことで、同じ業種の知り合いは「保育士をやってるからこそ得られたものもあるんじゃないの?」という声も挙がる。実際、それはその通りで日々の子どもの触れ合いから思いもよらないアイデアが閃いたりすることもあるし、子どもの年齢に応じた遊びの考察も日々の保育の中で出来る。しかし、その点であればアトリエ営業日に同じように子どもが来店した時に、試しに遊んでもらったり、どうアトリエの中で遊び過ごしているのかを考え、より遊びやすく面白い空間としてアトリエを進化させていく方が面白いと感じていた。だから、保育士を辞めるということに後悔はない。子ども達と会えなくなるという感覚もあまりなく、お客さんとして来ている家庭も沢山いるので、今後もまた会える。そして、幼少期だけの一過性の関係ではなく、小学生〜大人になるまでの関係になっていくのかも知れない。そういう人と人との関係が僕は大事だと思う。これからも何か辛くて困ったときの信頼できる大人の一人で在りたい。
おもちゃ作家だけで仕事をしていくことを考えると、完全に自営業になるので金銭的に不安な要素はなくはないが、それよりも今まで保育士として働いていた全ての時間が自分の作家の時間として使えると思うと楽しみでならない。(もちろん、事務作業もあるけれど)ふとした時に出てきたアイデアが山のようにあり、実現すれば面白いだろうな、というものが頭の中に散りばめられている。だけど、どれもそれなりに時間の掛かるものだから、壁面ビー玉転がし"mmw2 "のようにエンタメ要素で多くの人に届くものから順に優先的にものづくりをしてきた。しかし、4月からはそれが解禁されると思うと、、自分の限界に挑戦してみたくなるようなストイックな気持ちが疼く。働きやすさでいくと、保育士と兼業しているときよりも1本に絞った方が正直楽なのではないかと思う。
今までも本気でやってきたが、自分はまだまだこんなものじゃないと思う。それは自分に対する期待でもあり、自分にプレッシャーを掛けることでもあるが、その気持ちの根底は、全然形に出来てないアイデアを形に出来た時のイメージが沢山あるからだ。
2024年は自分の形に出来なかったアイデアをどんどん解放する。
思わず心が躍るようなおもちゃやモノを形にしていく。
■「工作芸術空間 アートギャラリー」 おもちゃづくりを通して考える‟SDGSとしての思考”とものづくり
■「工作芸術空間 アートギャラリー」 おもちゃづくりを通して考える‟SDGSとしての思考”とものづくり 2023.3.7
・アートギャラリーでは、木の実や落ち葉などの自然素材をはじめ、普段はゴミとして捨てるような空き箱、曲がった鍵、いらなくなった服の切れ端、ペットボトルの蓋など工作に使えそうなものを取り揃える。今、小学校〜高校までの義務教育の現場では、SDGSに対する教育的な取り組みが年々盛んになりつつある。世界が気候変動や資源の枯渇、生物多様性の喪失など危機的な状況に見舞われている。そうした話が小学校教育から行われているとすれば、Z世代を中心にそうしたSDGSに対する意識が高いのも頷ける。
SDGSとしての思想が強いからアートギャラリーを始めた訳ではないのだが、思い返すと自分自身の作家性はSDGSの精神が作品の中で根強くある。mmw2も木端材で構成された街と作品の表現であるし、製品を考えても必ず同じ形にしなくてはいけないような決まりを設けていないので、どんなに小さな木端材もビー玉と合わせてオーナメントにして販売する。SDGSを日常の中で意識するような場面というのは、SDSGの掲げる「17のゴール(到達点)と169のターゲット(小目標)」の幅が広く、どれを指すのかが分かりにくいという感じもある。ただ、SDGsの「持続可能な」という部分は、‟人間の活動が自然環境に悪影響を与えず、その活動を維持できること”という事を指しているので、具体的な目標を考えすぎるよりも、自分の日常生活が持続可能な社会の取り組みの一部として捉えると分かりやすい。
アートギャラリーはまさに日常の廃材をゴミとせず、活かすような試みとして親子でSDGS思考に触れてもらう機会とも言える。むしろ、子どもの方がそうした感覚は義務教育の中で学んでいることが多く、意識が高いかも知れない。そして、大人の方がデジタルデバイスを使い続けている日常であるから、そもそも家庭環境としてよほど工作する為の意識が高くないと、日常で出る廃材が何か遊びに活用できるという所まで結び付かないことを考慮すると、アートギャラリーにおける工作をする意義は高いものになる。
SDGSという堅ぐるしい言葉だとなかなかとっつきにくいが、捨てるはずだった廃材を手作りおもちゃやアート作品として生まれ変わることを体感することが実際一番わかりやすい。ゴミという認識から素材という認識に変わる。そして、そのままゴミになった先はどうなるのか、ゴミとして捨てられるだけじゃなく再生する道もあることなど、改めてそうした気付きが得られ、自分が生きている日常以外の世界にも目を向けるキッカケになるだろう。教育は教え伝えることよりも自分で体感したり、共に経験したりする方が印象深く、実になるものである。
デジタルの進化が目まぐるしいからこそ、木のおもちゃに触れさせたいという親の願いがある事にアトリエを運営しながら気付いた。やはり、どの家庭もデジタル製品ばかりで遊び過ごす子どもの未来に少なからず不安を抱いている。そういう意味では屋外に連れ出して、自然の中で過ごす経験をしていくことが子どもの育ちにとって重要な要素のひとつになるということを推奨したい。おもちゃ作家としての活動は、そうした土台の上で成り立っているように思うからである。ただ、そうした自然環境や屋外で遊べる場所が少なく、屋内の遊びが多くなっている実情を考えると、どんなものを作るかをイメージし、自分の手先を使って道具を使いこなし、価値として見ていなかったものを自分にとって素晴らしい価値のある物に変えていく‟ものづくり”は、単に木のおもちゃに触れさせるだけではないその子自身の手業として残っていく良さがある。
そして、ものづくりをしていく一連のプロセスは社会に出た時のPDCAサイクル‟Plan(計画)・Do(実行)・Check(評価)・Action(改善)”に共通している部分があるので、ものづくりをしていること自体が結果的に社会に順応していく能力に繋がる。能力開発の為にものづくりを推奨するということではないが、廃材を使ったものづくりであれば、SDGSを学び、知らず知らずのうちに自分の中でPDCAサイクルを回し、遊びを通しながらよりクリエイティブなアイデアを自分の思うがままに作りあげる工程が身に付くということになる。
ただ、あまり難しく考えすぎず想いのままにまずはものづくりに取り組んでみてはどうだろうか。まずはそこがスタートラインで、ものづくりが日常的にできる環境があると、子どもは自ら工夫して意欲的な取り組みをしていく。アートギャラリーはそうした何かを探している人にとってのキッカケになって欲しいと思う。
・アートギャラリーでは、木の実や落ち葉などの自然素材をはじめ、普段はゴミとして捨てるような空き箱、曲がった鍵、いらなくなった服の切れ端、ペットボトルの蓋など工作に使えそうなものを取り揃える。今、小学校〜高校までの義務教育の現場では、SDGSに対する教育的な取り組みが年々盛んになりつつある。世界が気候変動や資源の枯渇、生物多様性の喪失など危機的な状況に見舞われている。そうした話が小学校教育から行われているとすれば、Z世代を中心にそうしたSDGSに対する意識が高いのも頷ける。
SDGSとしての思想が強いからアートギャラリーを始めた訳ではないのだが、思い返すと自分自身の作家性はSDGSの精神が作品の中で根強くある。mmw2も木端材で構成された街と作品の表現であるし、製品を考えても必ず同じ形にしなくてはいけないような決まりを設けていないので、どんなに小さな木端材もビー玉と合わせてオーナメントにして販売する。SDGSを日常の中で意識するような場面というのは、SDSGの掲げる「17のゴール(到達点)と169のターゲット(小目標)」の幅が広く、どれを指すのかが分かりにくいという感じもある。ただ、SDGsの「持続可能な」という部分は、‟人間の活動が自然環境に悪影響を与えず、その活動を維持できること”という事を指しているので、具体的な目標を考えすぎるよりも、自分の日常生活が持続可能な社会の取り組みの一部として捉えると分かりやすい。
アートギャラリーはまさに日常の廃材をゴミとせず、活かすような試みとして親子でSDGS思考に触れてもらう機会とも言える。むしろ、子どもの方がそうした感覚は義務教育の中で学んでいることが多く、意識が高いかも知れない。そして、大人の方がデジタルデバイスを使い続けている日常であるから、そもそも家庭環境としてよほど工作する為の意識が高くないと、日常で出る廃材が何か遊びに活用できるという所まで結び付かないことを考慮すると、アートギャラリーにおける工作をする意義は高いものになる。
SDGSという堅ぐるしい言葉だとなかなかとっつきにくいが、捨てるはずだった廃材を手作りおもちゃやアート作品として生まれ変わることを体感することが実際一番わかりやすい。ゴミという認識から素材という認識に変わる。そして、そのままゴミになった先はどうなるのか、ゴミとして捨てられるだけじゃなく再生する道もあることなど、改めてそうした気付きが得られ、自分が生きている日常以外の世界にも目を向けるキッカケになるだろう。教育は教え伝えることよりも自分で体感したり、共に経験したりする方が印象深く、実になるものである。
デジタルの進化が目まぐるしいからこそ、木のおもちゃに触れさせたいという親の願いがある事にアトリエを運営しながら気付いた。やはり、どの家庭もデジタル製品ばかりで遊び過ごす子どもの未来に少なからず不安を抱いている。そういう意味では屋外に連れ出して、自然の中で過ごす経験をしていくことが子どもの育ちにとって重要な要素のひとつになるということを推奨したい。おもちゃ作家としての活動は、そうした土台の上で成り立っているように思うからである。ただ、そうした自然環境や屋外で遊べる場所が少なく、屋内の遊びが多くなっている実情を考えると、どんなものを作るかをイメージし、自分の手先を使って道具を使いこなし、価値として見ていなかったものを自分にとって素晴らしい価値のある物に変えていく‟ものづくり”は、単に木のおもちゃに触れさせるだけではないその子自身の手業として残っていく良さがある。
そして、ものづくりをしていく一連のプロセスは社会に出た時のPDCAサイクル‟Plan(計画)・Do(実行)・Check(評価)・Action(改善)”に共通している部分があるので、ものづくりをしていること自体が結果的に社会に順応していく能力に繋がる。能力開発の為にものづくりを推奨するということではないが、廃材を使ったものづくりであれば、SDGSを学び、知らず知らずのうちに自分の中でPDCAサイクルを回し、遊びを通しながらよりクリエイティブなアイデアを自分の思うがままに作りあげる工程が身に付くということになる。
ただ、あまり難しく考えすぎず想いのままにまずはものづくりに取り組んでみてはどうだろうか。まずはそこがスタートラインで、ものづくりが日常的にできる環境があると、子どもは自ら工夫して意欲的な取り組みをしていく。アートギャラリーはそうした何かを探している人にとってのキッカケになって欲しいと思う。
ものづくりのキッカケ
■ものづくりのキッカケ 2021.12.08
木のおもちゃって何をイメージしますか?木の車、ガラガラ玩具、積み木、KAPLAも知っている人にとっては定番ですね。私の場合は、幼少期の遊びのメインはTVゲーム、LEGO、ミニカーなどいった感じで、正直木の良さは保育士になり、月日が経ってもあまりピンときませんでした。
私の勤めていた保育園では溜めた空き箱を遊びで使うなんて光景が日常的な光景でした。園には、自分で作る事が大好きな5歳児のR君がいました。トイレットペーパーの芯がなくなったら、それを持ってきて“一緒に何か作ろう!”と元気に言葉を掛けてきたのをよく覚えています。空き箱もそんな流れで私の元に来て持ってきたのですが、その時は「せんせい!なにかつくって~!」でした。笑 今なら、自分で作ってみるように促したり、一緒に作る為のアイデアを考えたりするかも知れませんが、当時は“子ども達に何かをしてあげたい!”という気持ちが有り余ってました。そして、どうせ作るなら一般的な教本には載ってないようなオリジナルのモノが良い!と考え、「ビー玉迷路」を作る事にしてみたのです。
*私が迷路好きになったルーツはここから始まります。
その後、空き箱で作った「ビー玉迷路」は大流行しました。空き箱に絵を描いたような平面なものではなく、中に紙で出来た“小人”やスズランテープの川、紙粘土のドラゴンまで様々。担任ではなく、“フリー”という立場もあって、ずっと迷路をしている姿を見る訳にもいかないような状況でしたが、私の作った手作りおもちゃが子どもとの会話の中心になっていたので、「ビー玉迷路」が子どもとの会話のコミュニケーションツールになっていたのは、フリー保育士で一日同じ部屋にいる事ができない私にとってはとても嬉しい出来事でした。
ところが、製作して1週間ほどでR君が壊れたビー玉迷路持ってきました。ビー玉迷路はあまりにも人気で、あっという間にボロボロの状態になってしまったのです。R君は「せんせい~!せんせいなんだから壊れない玩具つくってよ!」と言い放ちました。その時、自分が"手作りおもちゃはある程度遊べば壊れるもの“という価値観である事に気付きます。同時に自分がフリーでいつも同じ部屋にいてすぐに直してあげられる状況にない事を改めて痛感しました。「自分が常に部屋にいなくても、壊れず安心して楽しく遊べるモノを作るべきだった・・・」と反省しました。
その後、そうした失敗を活かして壊れない「木枠のビー玉迷路」を作りました。この時、壊れないモノ作りって良い!と自分で作りながら感動します。出来た新しい木枠の迷路は頑丈で(当たり前ですが・・)ちょっとぶつかったくらいでは壊れません。そして、木枠のビー玉迷路を繰り返し遊ぶ子ども達の表情が“すこぶる良い“のです。それは壊れずに繰り返して遊ぶことの出来る!という安心から来る表情だと、2度の製作を通して感じました。
そして、それ以降も私にとって”木のおもちゃ作り”が自信になり、色々と作り続けました。また、当時は”男性保育士として出来ることは・・?”と自分の中でやたら自問自答をしていて、その答えが木のおもちゃ作りだったんですよね。また、嬉しかったのが卒園児の中に自由研究で「金子せんせいの迷路を真似して作った!」という男の子がいた事です。自分のおもちゃ作りには子ども達の心の中に残るモノがあるんだ!と思えました。
今後も心に残るようなモノ作りを心掛けて製作し続けていきたいです
木のおもちゃって何をイメージしますか?木の車、ガラガラ玩具、積み木、KAPLAも知っている人にとっては定番ですね。私の場合は、幼少期の遊びのメインはTVゲーム、LEGO、ミニカーなどいった感じで、正直木の良さは保育士になり、月日が経ってもあまりピンときませんでした。
私の勤めていた保育園では溜めた空き箱を遊びで使うなんて光景が日常的な光景でした。園には、自分で作る事が大好きな5歳児のR君がいました。トイレットペーパーの芯がなくなったら、それを持ってきて“一緒に何か作ろう!”と元気に言葉を掛けてきたのをよく覚えています。空き箱もそんな流れで私の元に来て持ってきたのですが、その時は「せんせい!なにかつくって~!」でした。笑 今なら、自分で作ってみるように促したり、一緒に作る為のアイデアを考えたりするかも知れませんが、当時は“子ども達に何かをしてあげたい!”という気持ちが有り余ってました。そして、どうせ作るなら一般的な教本には載ってないようなオリジナルのモノが良い!と考え、「ビー玉迷路」を作る事にしてみたのです。
*私が迷路好きになったルーツはここから始まります。
その後、空き箱で作った「ビー玉迷路」は大流行しました。空き箱に絵を描いたような平面なものではなく、中に紙で出来た“小人”やスズランテープの川、紙粘土のドラゴンまで様々。担任ではなく、“フリー”という立場もあって、ずっと迷路をしている姿を見る訳にもいかないような状況でしたが、私の作った手作りおもちゃが子どもとの会話の中心になっていたので、「ビー玉迷路」が子どもとの会話のコミュニケーションツールになっていたのは、フリー保育士で一日同じ部屋にいる事ができない私にとってはとても嬉しい出来事でした。
ところが、製作して1週間ほどでR君が壊れたビー玉迷路持ってきました。ビー玉迷路はあまりにも人気で、あっという間にボロボロの状態になってしまったのです。R君は「せんせい~!せんせいなんだから壊れない玩具つくってよ!」と言い放ちました。その時、自分が"手作りおもちゃはある程度遊べば壊れるもの“という価値観である事に気付きます。同時に自分がフリーでいつも同じ部屋にいてすぐに直してあげられる状況にない事を改めて痛感しました。「自分が常に部屋にいなくても、壊れず安心して楽しく遊べるモノを作るべきだった・・・」と反省しました。
その後、そうした失敗を活かして壊れない「木枠のビー玉迷路」を作りました。この時、壊れないモノ作りって良い!と自分で作りながら感動します。出来た新しい木枠の迷路は頑丈で(当たり前ですが・・)ちょっとぶつかったくらいでは壊れません。そして、木枠のビー玉迷路を繰り返し遊ぶ子ども達の表情が“すこぶる良い“のです。それは壊れずに繰り返して遊ぶことの出来る!という安心から来る表情だと、2度の製作を通して感じました。
そして、それ以降も私にとって”木のおもちゃ作り”が自信になり、色々と作り続けました。また、当時は”男性保育士として出来ることは・・?”と自分の中でやたら自問自答をしていて、その答えが木のおもちゃ作りだったんですよね。また、嬉しかったのが卒園児の中に自由研究で「金子せんせいの迷路を真似して作った!」という男の子がいた事です。自分のおもちゃ作りには子ども達の心の中に残るモノがあるんだ!と思えました。
今後も心に残るようなモノ作りを心掛けて製作し続けていきたいです
ビー玉の魅力
■ビー玉の魅力 2018.11.15
こんなタイトルを付けるとビー玉で権威のある偉い方のような感じがしますが、ビー玉が大好きなただの一般人です。笑 ただ、ビー玉を今回取り上げて書こうと思ったのも、ビー玉の面白さの再確認をしたいなと思ったからです。大人になればなるほど、そういう気持ちがどんどん置き去りにされていくような気がします。逆にビー玉を初めて目にする子ども達の目はキラキラと輝かしく、大事に握りしめたり、沢山のビー玉を手に持ちたがります。
自然の景色を見て綺麗と思えたり、動物を愛しく感じたりする事と同じようにビー玉にも似たような感情が出てきます。ビー玉に目を通すと世界がガラリと変わって見えたり、ビー玉の中には小さな気泡があることにも気が付きます。そして、何よりも楽しいのはコロコロと転がる動きが目を引き、見ているうちに心躍らせるのです。大人になってもこういう気持ちになるのですから、これを子ども達が目にして夢中にならないはずがありません。この動きはとても楽しいものですが、ビー玉をを扱う場というのも考えていかなくてはなりません。
例えば、ビー玉遊びというのは保育所では嫌われる傾向にあります。異年齢の子ども達が過ごす環境では、ビー玉が誤飲のリスクの対象として危惧されるからです。現場の保育士や年長児を中心に気を付けていけば良い、という風に捉えて楽しくビー玉遊びを取り入れている所もありますが、それでも保育所という場所では子ども達の安全責任がありますから、ビー玉の取り扱いには気を遣うでしょう。なので、保育者だってビー玉は好きだけれど、なんとなく煙たがられてしまいやすいのです。
子どもの頃にしか体験できない夢中になる時間というのは沢山あります。外遊びで鬼ごっこやかくれんぼ、室内では積み木遊びをじっくりしたり、ままごとでそれぞれの役になりきったりして遊ぶのも幼少期ならではでしょう。・・その中にビー玉もあるんです。子ども達は“これは面白そうだ!”と感覚的に感じ取ってビー玉遊びをしたい!と主張します。でも、そんな時に大人がビー玉に対して魅力的に感じていなかったり、綺麗だと思うけどそこまでビー玉の遊びを知らなかったりするという事もあるのではないでしょうか?
ビー玉遊びは色々あります。色々な遊び方を大人が知る事で子ども達のビー玉遊びはより豊かになるでしょう。そして、”ビー玉遊び”というのは、カタチにしてないだけで意外と子ども同士でルールを作って遊んだりしています。それも良しです。大事なのはビー玉が好きだという気持ちを大人が汲み取って、場を作ったり、出来れば一緒になって考えて遊ぶこと。
私はそんな大人であり続け、ビー玉の遊びを世の中に広める仕事をしていきたいです。
こんなタイトルを付けるとビー玉で権威のある偉い方のような感じがしますが、ビー玉が大好きなただの一般人です。笑 ただ、ビー玉を今回取り上げて書こうと思ったのも、ビー玉の面白さの再確認をしたいなと思ったからです。大人になればなるほど、そういう気持ちがどんどん置き去りにされていくような気がします。逆にビー玉を初めて目にする子ども達の目はキラキラと輝かしく、大事に握りしめたり、沢山のビー玉を手に持ちたがります。
自然の景色を見て綺麗と思えたり、動物を愛しく感じたりする事と同じようにビー玉にも似たような感情が出てきます。ビー玉に目を通すと世界がガラリと変わって見えたり、ビー玉の中には小さな気泡があることにも気が付きます。そして、何よりも楽しいのはコロコロと転がる動きが目を引き、見ているうちに心躍らせるのです。大人になってもこういう気持ちになるのですから、これを子ども達が目にして夢中にならないはずがありません。この動きはとても楽しいものですが、ビー玉をを扱う場というのも考えていかなくてはなりません。
例えば、ビー玉遊びというのは保育所では嫌われる傾向にあります。異年齢の子ども達が過ごす環境では、ビー玉が誤飲のリスクの対象として危惧されるからです。現場の保育士や年長児を中心に気を付けていけば良い、という風に捉えて楽しくビー玉遊びを取り入れている所もありますが、それでも保育所という場所では子ども達の安全責任がありますから、ビー玉の取り扱いには気を遣うでしょう。なので、保育者だってビー玉は好きだけれど、なんとなく煙たがられてしまいやすいのです。
子どもの頃にしか体験できない夢中になる時間というのは沢山あります。外遊びで鬼ごっこやかくれんぼ、室内では積み木遊びをじっくりしたり、ままごとでそれぞれの役になりきったりして遊ぶのも幼少期ならではでしょう。・・その中にビー玉もあるんです。子ども達は“これは面白そうだ!”と感覚的に感じ取ってビー玉遊びをしたい!と主張します。でも、そんな時に大人がビー玉に対して魅力的に感じていなかったり、綺麗だと思うけどそこまでビー玉の遊びを知らなかったりするという事もあるのではないでしょうか?
ビー玉遊びは色々あります。色々な遊び方を大人が知る事で子ども達のビー玉遊びはより豊かになるでしょう。そして、”ビー玉遊び”というのは、カタチにしてないだけで意外と子ども同士でルールを作って遊んだりしています。それも良しです。大事なのはビー玉が好きだという気持ちを大人が汲み取って、場を作ったり、出来れば一緒になって考えて遊ぶこと。
私はそんな大人であり続け、ビー玉の遊びを世の中に広める仕事をしていきたいです。
良いおもちゃとは何か。
■良いおもちゃとは何か。2018.11.26
まず、はじめに申し上げたいのは“子どもにとって良い玩具とは?”というテーマは、玩具による影響について考える様々なお仕事をされている方による多様な見解や定義に基づいて数多く提唱されているという事です。なので、これが一番良い玩具という事はもちろんここで断言出来るはずがありませんし、子どもにとっても“良い玩具”というのは一人一人違いますし、年齢によっても大きく違います。そして、玩具には色々な発達の狙いがある玩具があります。これは指先を使って遊ぶ、目で追って集中する、耳を澄まして聞いたり感じたりする、人とやりとりしながら楽しむ・・・など、考えてみると色々あるでしょう。
この玩具が一番良い!という事は言えませんが、私が思う“子どもにとって良い玩具とは?”について考え、3つの玩具を挙げてお伝えしていきたいと思います。
【1 積み木 】
まず、パッと思い付くのは「積み木」です。積み木遊びというと、高く積み上げたり、家やお城など建造物を作るイメージの方も多いかと思いますが、平面に並べて遊んだりも出来るので、1~2歳からでも少しずつ積み木遊びを始められるのです。そして、徐々に積み木を積み上げる事の楽しみを知り、人形を入れて部屋を作ったり、家を作ったりする。積み上げる高さを競ったり、協力して皆で大きな建造物に挑戦するということもできます。さらに言えば、幼児期に限らず小学生になっても積み木というのは捉え方や工夫次第で遊びの題材に出来る物なので、長期的に遊べるものとして活躍が出来ますよね。また、自分なりに考えた形や積み上げ方で“工夫”することが出来る、それは与えられた形の中で遊ぶよりも自分なりの想いを製作物に向けることが出来る。そんなオリジナリティーに幅が出せる積み木遊びはまさに魅力的です。そういった観点から、積み木には各年齢に合わせた遊びが出来る応用力があるので、お勧めです。
【2 ままごとあそびの玩具】
二つ目は「ままごとあそびの玩具」です。ままごとあそびの玩具・・と言えば、例えば、食べものに見立てた食材やなべや包丁にお皿があります。時にはエプロンを身に付けてレストランごっこをする。またはお母さんやお父さんになりきったり、赤ちゃん役になりきって遊んだりする。こうしたやりとりをする中で使う玩具はどれもままごと遊びをするときには欠けてはいけないものばかりです。そして、自分のイメージで相手に言葉を掛けてやりとりしていきます「ご飯が出来るまでここで座って待っててね」「仕事にいってきます」「そろそろ寝る時間だよ~」など、子ども同士が知っている身近な大人のイメージでどんどんその世界が進んでいきます。この人と人とのやりとりは大人になるまでに必要な相手の距離感や想いの伝え方などを遊びながら自然に学ぶことができます。
玩具とは「子どもが持ってあそぶ道具」です。怪獣、ミニカー、レゴ、人形などだけが玩具ではなく、実際になりきって遊ぶ事が出来る為に使う道具・・それもまた“玩具”なんですよね。これからはどんどんスマホなどインターネット機器で簡単にやりとりが可能になり、それは少なからず知らず知らずのうちに大人から子どもに影響を与えていくでしょう。そういう事も考えると、子ども時代に人と人とが向き合ってやりとりをする上の「ままごと遊び」で使う色々な玩具は、人として形成していく為の必要な玩具だと感じます。
【3 大人になっても心に残る玩具】
最後に3つ目はビー玉遊び!と書きたいところですが、子どもにとって良い玩具とは抽象的な表現でして、それは「大人になっても心に残る玩具」です。それも自分でどんな風に遊んだのかをよく思い出せる玩具は、たとえ周りの大人が紙くずやごみのようにしか見えなくても、その子どもにとっては良い玩具です。(現代はそんなことあまりないかも知れませんが。。)なぜなら、良く思い出せるという事はそれだけその玩具で色々と遊んでいたから思い出せるのでしょう。そこにきっと自分なりの工夫があって、こだわりもあり、好きだった。そういう気持ちになるような物は良い玩具だと、私は思います。
話は変わりますが、良い玩具ランキングというのがあります。あれは大人が子ども達に与えてみた統計的なものであるし、客観的に大人が人気のある、ないを決めたものでしかありません。 なので、玩具の購入を考えているのであれば、そうしたランキングや流行りなど左右されない玩具選びをしてほしいですね。
【番外編 おもちゃ選びについて】
おもちゃ選びではどれだけ長く遊べるのかや値段など意識して選ばれる方も多いと思います。特におもちゃの値段の高さに圧倒される方も多いでしょう。私もよく思います。苦笑 でも、値段の高い玩具はそれだけ長く遊べる幅ある玩具が多いのも事実です。(これは安い値段の玩具は良くないと言っている訳ではありません。)逆に、時期的に流行る戦隊モノなどの玩具はその場しのぎの玩具である側面があると思うし、“カタチ”から入ってなりきって遊ぶのでそれ以上の自分で物語を作っていくのが乏しくなってしまいがちです。
例えば、時期的なおもちゃを定期的に買うとしましょう。年間で考えたら、1~2万くらい・・もしかすると、もっと掛かっているかもしれません。そんな時期的なおもちゃはいずれ飽きていき、、新しいものが欲しくなります。そして、それを毎年繰り返していくと過去の玩具の役割はというのはどんどん古いものとして扱われ、遊びの価値無くなってしまうでしょう。そう考えていくと、多少値が高い玩具でも何年も遊び続けていくなら決して高くありません。わかりやすく言えば、家電やスマホの分割払い。あれも日常的に必要だから、高い代金を支払うし、定期的に玩具を買っているのならドン!と買っても高くない訳です。子どもにとっては遊びは学びであるし、玩具は日々の心の栄養です。玩具の栄養失調のまま育っていくと、細い心で育ち、それはやがて折れるかもしれません。
ただ、そうして高いお金を出して買ったのだからこれでずっと遊んでね、と子どもに与えっぱなしにするのもいけません。新しく買った玩具でどのように遊び、どのような方法で遊べるのかを色々と一緒になって考えていく必要があります。もちろん、子どもがその玩具に興味がある時はそれを見守るのも良いでしょう。ですが、興味が薄れ他の玩具を欲しがっているような時こそ、一緒になって、こんな風にしたらもっと遊べる!こんな風にしたら面白い!と話合いながら遊んでほしいですね。こうした遊びの展開のしやすさを考えると、1で述べた「積み木遊び」は本当に素晴らしい遊びの素材なのではないかと思います。
【おわりに・・】
ここまで書いて言うのも変かもしれませんが、私は決しておもちゃ屋の回し者ではありませんからね?笑 あー、気が付けばこれだけの量を書いてました。苦笑 おそらく、今後色々な方々に子どもにとって良い玩具とは?と聞かれてきた時にどう応えようか・・では困るので、よく考えた結果、これだけの文章量になったのです。苦笑 でも、自分にとっても何を考え、どう応えていけば良いのかまたひとつ手がかりが見つかったような感じです。まだまだ考えが浅いところがあると思いますが、今の私の考えはこんな感じです。なるべく考えがブレずに何年か先も同じような事を話することが出来ればカッコイイと思います。笑
以上、子どもにとって良い玩具とは?でした。
まず、はじめに申し上げたいのは“子どもにとって良い玩具とは?”というテーマは、玩具による影響について考える様々なお仕事をされている方による多様な見解や定義に基づいて数多く提唱されているという事です。なので、これが一番良い玩具という事はもちろんここで断言出来るはずがありませんし、子どもにとっても“良い玩具”というのは一人一人違いますし、年齢によっても大きく違います。そして、玩具には色々な発達の狙いがある玩具があります。これは指先を使って遊ぶ、目で追って集中する、耳を澄まして聞いたり感じたりする、人とやりとりしながら楽しむ・・・など、考えてみると色々あるでしょう。
この玩具が一番良い!という事は言えませんが、私が思う“子どもにとって良い玩具とは?”について考え、3つの玩具を挙げてお伝えしていきたいと思います。
【1 積み木 】
まず、パッと思い付くのは「積み木」です。積み木遊びというと、高く積み上げたり、家やお城など建造物を作るイメージの方も多いかと思いますが、平面に並べて遊んだりも出来るので、1~2歳からでも少しずつ積み木遊びを始められるのです。そして、徐々に積み木を積み上げる事の楽しみを知り、人形を入れて部屋を作ったり、家を作ったりする。積み上げる高さを競ったり、協力して皆で大きな建造物に挑戦するということもできます。さらに言えば、幼児期に限らず小学生になっても積み木というのは捉え方や工夫次第で遊びの題材に出来る物なので、長期的に遊べるものとして活躍が出来ますよね。また、自分なりに考えた形や積み上げ方で“工夫”することが出来る、それは与えられた形の中で遊ぶよりも自分なりの想いを製作物に向けることが出来る。そんなオリジナリティーに幅が出せる積み木遊びはまさに魅力的です。そういった観点から、積み木には各年齢に合わせた遊びが出来る応用力があるので、お勧めです。
【2 ままごとあそびの玩具】
二つ目は「ままごとあそびの玩具」です。ままごとあそびの玩具・・と言えば、例えば、食べものに見立てた食材やなべや包丁にお皿があります。時にはエプロンを身に付けてレストランごっこをする。またはお母さんやお父さんになりきったり、赤ちゃん役になりきって遊んだりする。こうしたやりとりをする中で使う玩具はどれもままごと遊びをするときには欠けてはいけないものばかりです。そして、自分のイメージで相手に言葉を掛けてやりとりしていきます「ご飯が出来るまでここで座って待っててね」「仕事にいってきます」「そろそろ寝る時間だよ~」など、子ども同士が知っている身近な大人のイメージでどんどんその世界が進んでいきます。この人と人とのやりとりは大人になるまでに必要な相手の距離感や想いの伝え方などを遊びながら自然に学ぶことができます。
玩具とは「子どもが持ってあそぶ道具」です。怪獣、ミニカー、レゴ、人形などだけが玩具ではなく、実際になりきって遊ぶ事が出来る為に使う道具・・それもまた“玩具”なんですよね。これからはどんどんスマホなどインターネット機器で簡単にやりとりが可能になり、それは少なからず知らず知らずのうちに大人から子どもに影響を与えていくでしょう。そういう事も考えると、子ども時代に人と人とが向き合ってやりとりをする上の「ままごと遊び」で使う色々な玩具は、人として形成していく為の必要な玩具だと感じます。
【3 大人になっても心に残る玩具】
最後に3つ目はビー玉遊び!と書きたいところですが、子どもにとって良い玩具とは抽象的な表現でして、それは「大人になっても心に残る玩具」です。それも自分でどんな風に遊んだのかをよく思い出せる玩具は、たとえ周りの大人が紙くずやごみのようにしか見えなくても、その子どもにとっては良い玩具です。(現代はそんなことあまりないかも知れませんが。。)なぜなら、良く思い出せるという事はそれだけその玩具で色々と遊んでいたから思い出せるのでしょう。そこにきっと自分なりの工夫があって、こだわりもあり、好きだった。そういう気持ちになるような物は良い玩具だと、私は思います。
話は変わりますが、良い玩具ランキングというのがあります。あれは大人が子ども達に与えてみた統計的なものであるし、客観的に大人が人気のある、ないを決めたものでしかありません。 なので、玩具の購入を考えているのであれば、そうしたランキングや流行りなど左右されない玩具選びをしてほしいですね。
【番外編 おもちゃ選びについて】
おもちゃ選びではどれだけ長く遊べるのかや値段など意識して選ばれる方も多いと思います。特におもちゃの値段の高さに圧倒される方も多いでしょう。私もよく思います。苦笑 でも、値段の高い玩具はそれだけ長く遊べる幅ある玩具が多いのも事実です。(これは安い値段の玩具は良くないと言っている訳ではありません。)逆に、時期的に流行る戦隊モノなどの玩具はその場しのぎの玩具である側面があると思うし、“カタチ”から入ってなりきって遊ぶのでそれ以上の自分で物語を作っていくのが乏しくなってしまいがちです。
例えば、時期的なおもちゃを定期的に買うとしましょう。年間で考えたら、1~2万くらい・・もしかすると、もっと掛かっているかもしれません。そんな時期的なおもちゃはいずれ飽きていき、、新しいものが欲しくなります。そして、それを毎年繰り返していくと過去の玩具の役割はというのはどんどん古いものとして扱われ、遊びの価値無くなってしまうでしょう。そう考えていくと、多少値が高い玩具でも何年も遊び続けていくなら決して高くありません。わかりやすく言えば、家電やスマホの分割払い。あれも日常的に必要だから、高い代金を支払うし、定期的に玩具を買っているのならドン!と買っても高くない訳です。子どもにとっては遊びは学びであるし、玩具は日々の心の栄養です。玩具の栄養失調のまま育っていくと、細い心で育ち、それはやがて折れるかもしれません。
ただ、そうして高いお金を出して買ったのだからこれでずっと遊んでね、と子どもに与えっぱなしにするのもいけません。新しく買った玩具でどのように遊び、どのような方法で遊べるのかを色々と一緒になって考えていく必要があります。もちろん、子どもがその玩具に興味がある時はそれを見守るのも良いでしょう。ですが、興味が薄れ他の玩具を欲しがっているような時こそ、一緒になって、こんな風にしたらもっと遊べる!こんな風にしたら面白い!と話合いながら遊んでほしいですね。こうした遊びの展開のしやすさを考えると、1で述べた「積み木遊び」は本当に素晴らしい遊びの素材なのではないかと思います。
【おわりに・・】
ここまで書いて言うのも変かもしれませんが、私は決しておもちゃ屋の回し者ではありませんからね?笑 あー、気が付けばこれだけの量を書いてました。苦笑 おそらく、今後色々な方々に子どもにとって良い玩具とは?と聞かれてきた時にどう応えようか・・では困るので、よく考えた結果、これだけの文章量になったのです。苦笑 でも、自分にとっても何を考え、どう応えていけば良いのかまたひとつ手がかりが見つかったような感じです。まだまだ考えが浅いところがあると思いますが、今の私の考えはこんな感じです。なるべく考えがブレずに何年か先も同じような事を話することが出来ればカッコイイと思います。笑
以上、子どもにとって良い玩具とは?でした。
おもちゃ作家のあるべき姿とは
■自分のあるべきおもちゃ作家の姿とは② 2022.1.27
あれから2年が経ちました。当時の理想とするイメージと異なる部分はありますが、それでも自分の理想とする部分を抑えながら、少しずつイメージする作家の第1歩を進み始めた気がします。仕事の仕方も多売薄利にならないように、生産数もグッと抑えながら、自分が無理なくモノ作りを進めている実感があります。自分のおもちゃ作家のスタイルが固まり、4月からそれが確実に実践に近づいていくという見通しもつくようになってきました。
地元“手稲”で開業し、今後色々な人がアトリエを訪れていく一連の流れはどんな影響があるのでしょう。一番に強く実感するのは、現在保育士をしながら日々子ども達におもちゃ作家としてお店を開くことを伝えたり、今後足を運んでもらったりした時に子ども達の心の中にはどんな形として自分が残るのか、、という事をよく考えます。多種多様な生き方がある中で、こんな暮らし方をしている人が身近にいる状況を目の当たりして何を思うのか。自分もおもちゃ作家になってみたいと思って欲しい訳では決してないのですが、色々な生き方がある事を知って、これから社会に巣立っていく為の判断材料として良い刺激になれば良いな、くらいに思っています。基本的には自分が好きな事をしているので、その辺りの事は自分が活動していく中での副産物のような捉えが今は大きいです。歳を取りステージが変わればまた違った意気込みで、その辺りは捉えていくのかもしれませんが。
起業後に求められてくるのは、“おもちゃ作家”として分かりやすいおもちゃが求められてくるように思います。名称がそうなので当たり前だと思いますが、個人的にはそうしたおもちゃ作家としての捉えが段々と曖昧になってきています。おもちゃ作家として活動しているのですが、ビー玉の「美しさ」「動きの面白さ」「素材の多様性」をコンセプトにした作家としてモノ作りを進めていく事で、単におもちゃ作りだけに留まらない造形作家のような一面もあることに気付いてきました。今後の課題は、そうした一面があることも頭の片隅に残しながらも、おもちゃ作家としてもしっかりと胸を張れるようなモノ作りをしていくこと。4月からの開業はそうした部分が不安でそしてどこまでやれるのかとても楽しみです。
■自分のあるべきおもちゃ作家の姿とは① 2020.11.23
私はおもちゃ作家と名乗って活動していくには、まだまだ作品の質やそれを生業にして食べていくだけの事が出来ておらず、そこまでの道のりもいつ辿り着くのかわかりません。でも、今言えることは、玩具を作り、生み出していく事が好きなこと。そして、私の作った玩具を手に取って楽しそうに遊ぶ姿を見て、自然と嬉しくなること。これを仕事として世の中に発信していった先にそういう姿の人達がいっぱいになる。そんなことを考えると幸せな気持ちになるし、それが仕事として成り立って生きていけるなら、絶対にそういう生き方をしていきたいんですよね。最近はそういう将来像というのが少しずつイメージ出来てきて、今回のHPでも伝えたい想いが沢山ある。今はこういう想いを抱き続け、行動し続けていった先にそういう未来があると信じて頑張っている所です。
全国にはおもちゃ作家さんが色々いて、色々なカタチの仕事の仕方があります。意識しておきたいのは、これから目指す先は色んな「仕事のカタチ」であって、そこに自分を当てはめていく必要はないということ。あくまで手本として色々みて、良いと思った部分は吸収して、そこまで興味がなかったり、自分のスタイルに合わないと思ったら、違うやり方を探していく。それは私に限らず皆そんな事も頭の隅に考えて仕事をしているんじゃないかなと思います。
では、どんなおもちゃ作家になるのが一番の理想なのか?・・理想を語るというのはなんだか気恥ずかしいのですが、理想の前に自分が嫌だなあと思う仕事のスタイルについて話をしましょう。それは365日朝から晩まで木を削って同じおもちゃをずっと作り続ける・・そんな単調作業は嫌です。笑 これは決して他のおもちゃ作家さんを馬鹿にしている訳ではないですし、実際のおもちゃ作家の現実を知らないので、なんとなくおもちゃ作家のやっているイメージが偏っているんだと思います。でも、色々な作品を見て頂いてお分かりになるかと思いますが、色々な遊び方の作品作りをしていて、自分の感じた好奇心のままに新しい遊びの可能性を探し回っている状態です。このスタイルが作家になった時にも持続していくこと=食べていけないことに、にならないような生き方が理想としては一番良いのです。回りくどいですね。苦笑
例えば、私は365日おもちゃを作り続けることは別に苦ではありません。基本的に好きな事ですから。ただし、その中でも色々な玩具作りをしたい!さらに言えば、実際に色々な場で特にビー玉遊びの楽しさを伝えたい!という気持ちが強いです。なので、一つ一つ手作りしたものを自分で生産して人に手渡すというよりも、自分が遊びの情報媒体となって自ら色々な遊びの良さをその場に行って伝えていく、というスタイルが理想かなと思います。また、自分で製作したモノの中でそれがもっと世の中に広めていきたいと思えるようなモノが生まれ、それをどなたかに生産して頂くということが出来れば最高です。
そんな風に自分が活躍出来る未来を掴む為には、まずは目の前の事を一所懸命に取り組んでいくことが大切です。そうやって今までやってきたから、今がある。これからもそんな風に楽しみながら自分の活動を躍進していきたいです。
あれから2年が経ちました。当時の理想とするイメージと異なる部分はありますが、それでも自分の理想とする部分を抑えながら、少しずつイメージする作家の第1歩を進み始めた気がします。仕事の仕方も多売薄利にならないように、生産数もグッと抑えながら、自分が無理なくモノ作りを進めている実感があります。自分のおもちゃ作家のスタイルが固まり、4月からそれが確実に実践に近づいていくという見通しもつくようになってきました。
地元“手稲”で開業し、今後色々な人がアトリエを訪れていく一連の流れはどんな影響があるのでしょう。一番に強く実感するのは、現在保育士をしながら日々子ども達におもちゃ作家としてお店を開くことを伝えたり、今後足を運んでもらったりした時に子ども達の心の中にはどんな形として自分が残るのか、、という事をよく考えます。多種多様な生き方がある中で、こんな暮らし方をしている人が身近にいる状況を目の当たりして何を思うのか。自分もおもちゃ作家になってみたいと思って欲しい訳では決してないのですが、色々な生き方がある事を知って、これから社会に巣立っていく為の判断材料として良い刺激になれば良いな、くらいに思っています。基本的には自分が好きな事をしているので、その辺りの事は自分が活動していく中での副産物のような捉えが今は大きいです。歳を取りステージが変わればまた違った意気込みで、その辺りは捉えていくのかもしれませんが。
起業後に求められてくるのは、“おもちゃ作家”として分かりやすいおもちゃが求められてくるように思います。名称がそうなので当たり前だと思いますが、個人的にはそうしたおもちゃ作家としての捉えが段々と曖昧になってきています。おもちゃ作家として活動しているのですが、ビー玉の「美しさ」「動きの面白さ」「素材の多様性」をコンセプトにした作家としてモノ作りを進めていく事で、単におもちゃ作りだけに留まらない造形作家のような一面もあることに気付いてきました。今後の課題は、そうした一面があることも頭の片隅に残しながらも、おもちゃ作家としてもしっかりと胸を張れるようなモノ作りをしていくこと。4月からの開業はそうした部分が不安でそしてどこまでやれるのかとても楽しみです。
■自分のあるべきおもちゃ作家の姿とは① 2020.11.23
私はおもちゃ作家と名乗って活動していくには、まだまだ作品の質やそれを生業にして食べていくだけの事が出来ておらず、そこまでの道のりもいつ辿り着くのかわかりません。でも、今言えることは、玩具を作り、生み出していく事が好きなこと。そして、私の作った玩具を手に取って楽しそうに遊ぶ姿を見て、自然と嬉しくなること。これを仕事として世の中に発信していった先にそういう姿の人達がいっぱいになる。そんなことを考えると幸せな気持ちになるし、それが仕事として成り立って生きていけるなら、絶対にそういう生き方をしていきたいんですよね。最近はそういう将来像というのが少しずつイメージ出来てきて、今回のHPでも伝えたい想いが沢山ある。今はこういう想いを抱き続け、行動し続けていった先にそういう未来があると信じて頑張っている所です。
全国にはおもちゃ作家さんが色々いて、色々なカタチの仕事の仕方があります。意識しておきたいのは、これから目指す先は色んな「仕事のカタチ」であって、そこに自分を当てはめていく必要はないということ。あくまで手本として色々みて、良いと思った部分は吸収して、そこまで興味がなかったり、自分のスタイルに合わないと思ったら、違うやり方を探していく。それは私に限らず皆そんな事も頭の隅に考えて仕事をしているんじゃないかなと思います。
では、どんなおもちゃ作家になるのが一番の理想なのか?・・理想を語るというのはなんだか気恥ずかしいのですが、理想の前に自分が嫌だなあと思う仕事のスタイルについて話をしましょう。それは365日朝から晩まで木を削って同じおもちゃをずっと作り続ける・・そんな単調作業は嫌です。笑 これは決して他のおもちゃ作家さんを馬鹿にしている訳ではないですし、実際のおもちゃ作家の現実を知らないので、なんとなくおもちゃ作家のやっているイメージが偏っているんだと思います。でも、色々な作品を見て頂いてお分かりになるかと思いますが、色々な遊び方の作品作りをしていて、自分の感じた好奇心のままに新しい遊びの可能性を探し回っている状態です。このスタイルが作家になった時にも持続していくこと=食べていけないことに、にならないような生き方が理想としては一番良いのです。回りくどいですね。苦笑
例えば、私は365日おもちゃを作り続けることは別に苦ではありません。基本的に好きな事ですから。ただし、その中でも色々な玩具作りをしたい!さらに言えば、実際に色々な場で特にビー玉遊びの楽しさを伝えたい!という気持ちが強いです。なので、一つ一つ手作りしたものを自分で生産して人に手渡すというよりも、自分が遊びの情報媒体となって自ら色々な遊びの良さをその場に行って伝えていく、というスタイルが理想かなと思います。また、自分で製作したモノの中でそれがもっと世の中に広めていきたいと思えるようなモノが生まれ、それをどなたかに生産して頂くということが出来れば最高です。
そんな風に自分が活躍出来る未来を掴む為には、まずは目の前の事を一所懸命に取り組んでいくことが大切です。そうやって今までやってきたから、今がある。これからもそんな風に楽しみながら自分の活動を躍進していきたいです。
進化するアトリエ
【開 業】2022.01.26
2022年4月よりようやく開業することになりました。もっと早く開業しても良かったのですが、自分の夢の大きさに現実が追い付かなかった気がします。アトリエがあって、そこがビー玉で溢れた空間で、訪れた人がワクワクするような世界観を作り出したい。じゃあ、それってお金を貯めてアトリエという場を構えれば自然と出来るのか?って話になります。3年前に旭川高等技術専門学院で木工を学び、手稲で保育士として復職し、今に至ります。その中で開業の仕方は色々と考えました。まずは製品だけを販売しようか、もっと技術を高める為に段階的にゆっくりとチャレンジしても、、などなど、。ただ、ずっとい引っ掛かっていたのはアトリエマーブルとして活動しているのにアトリエがないということ。一言で言うとダサい。理想主義者では決してないので、ちゃんと現実的なカタチにしたかった。でも、冒頭でも述べたように夢のスケールが大きすぎて、開業まで準備するのに時間が掛かりました。4月から開業するのは、今の借家の自宅をアトリエとしても運用できるようにリノベーションし、かつ人に感動してもらえるような内装を施すこと。その辺は結構こだわりが強いので、沢山時間を掛けました。あーしたい、こーしたい、と理想があり過ぎでもまとまらないので、確実に出来そうなことをどんどん実行する日々。きっとこういう事を繰り返していくと、借家とは言えかなり面白い変わった場所になるんじゃないかなあ~、などと自分自身にワクワクする部分もあります。
アトリエマーブルとしては始動しますが、まだまだこれからです。スタートラインにようやく立ったという感じでしょうか。そして、アトリエとして開業するにしても、もっとめちゃくちゃカッコいいアトリエに住んでみたい!という想いもあります。山の中にアトリエがある。天井が高くて、ビー玉転がしがあちこちにあって、沢山の人で溢れている。ビー玉の遊び体験や鑑賞に留まらないその場に居てただただ楽しい一つのコミュニティも出来上がっているような、、そんな場も作りたい。色々考えてしまいます。世界中の人が訪れたくなるというのは、それほど魅力的なコンテンツとしての色を出していきたいという気持ちの表れです。個人事業として1年目気合い入れていきたいと思います。
【私の頭の中のアトリエ】2020.11.19
私の頭の中のアトリエは、札幌から近郊で森の中に工房があります。敷地から工房までは少し歩きますが、その途中の道のりが楽しい。自然を使った玩具があり、木で出来た遊べる置物やビー玉で出来た綺麗な石段を上がって、ようやく工房に辿り着きます。
自宅兼の工房は、玄関を開けるとすぐに遊びのスペースが広がっていて、お茶を飲んだりしながらゆっくり遊べることが出来るようになってます。奥にはビー玉遊びのコーナーが沢山あって、色鮮やかです。木の香りがする工房の中で遊んでいると、窓から陽が差してビー玉がキラキラと光り、いつまでも遊んでいたい気持ちになります。さらに奥には自分の工房があって、そこで色々な玩具を作る訳ですが、そこは子どもでも見えるくらいの高さのガラス窓で、良く中が見えるようになっています。私は玩具を作りながら時々遊んでいる様子を見に行って、どんな風に遊ぶのかを伝えていきます。それを毎週土日に自宅解放というイメージでやりたいのです。
冒頭で述べた“世界中の人が訪れたくなるようなアトリエ”にする為には、先ほど述べた事だけではきっと来ないでしょう。世界から訪れたくなるという事は“そこに行かないと出来ない体験や感動があるか”という事が1つのポイントになります。それはそこに行かないといけないような付加価値あるはずです。色んなモノ作りもそうですが、他でも見たことのあるようなモノは“別にこれじゃなくても・・”と思わせてしまうのです。(見たことあるモノは安心感でもあるので、全否定はしませんが)だから、それぞれ材質が違うとか、こういうデザインで作ったとか、色々と考えて世に色んなカタチで発信されているのです。その中でも訪れたくなるほどという事は、私のアトリエの中にそれだけ世界でもない付加価値があれば、世界から人は訪れる!という事になるのです。
具体的には大きなビー玉玩具を製作したいです。それも今までにないくらいの大きさのもので、出来る限り沢山の時間を掛けて製作してみたい。そして、そんな玩具がいっぱい出来て、いつかビー玉のアミューズメント施設なんて出来たら・・・面白いなあ~と思うんですよね。
私は人生を賭けて、この夢を叶える為に行動し続けます。
ビー玉を文化に
【これからのミライを見据えた世界】2022.01.26
ビー玉を文化にするだなんて、かなり大それた発言だと思います。例えば、地元でビー玉が生産している工場があって、それがその地域の生活を支え、やがて文化になる、というような話ならまだわかりますが、そうではない。ビー玉が好きな作家がいて、それをただ色々なカタチで発信している、、というだけにしか過ぎないのですから。でも、今の活動をそういう視点で捉え、活動を続けていくというのもなんだか楽しい気がして考えたりしてます。
文化を考えていくとやはり一人で出来るようなものではなくて、自然発生的に起こるものが文化となるのだと思いますが、スマホを通じて様々なニッチな分野な世界の情報を簡単に手にしたり、YouTubeを通して観たり出来るようになりました。これはひと昔前のような遊び環境には戻れず、個人がそれぞれ好きな分野へ飛び込み没頭する、、という世界になったのです。なので、地元でそうしたコミュニティへわざわざ足を運ぶ必要もなく、文化というものが形成されにくい時代になってきているのではないかと思っています。、、とは言え、ビー玉を文化に出来るほどの影響を自分が身に付けることを考えると、ビー玉に注ぐ人生として一生終えても良いと思えてくるような気がします。現在33歳。この歳でビー玉ばかりを考え、ビー玉を日々触り続けている物好きはあまりいないと思いますが、ふと客観的に自分を捉えると面白い人生じゃないかなと思えてきます。コイツの人生はどうしたらもっと面白くなる?なんて思うほど冷静に自分を見たりもします。そんな自分を面白くも、つまらなくするのも自分の行動次第。本気でビー玉を文化にしたいなら、ビー玉のありとあらゆる面白さを徹底的に分析したり、実際におもちゃに昇華して製品にしたり、マーブルマシンや装飾としてのビー玉の付加価値を高めるような作品作りもどんどん取り組んでいく必要性がある。そう考えると自分の今取り組んでいる活動はそうした“ビー玉を文化に”というキーワードに繋がっているのかも知れません。
この10年のスマホの普及で生活の価値観はだいぶ変わりました。今後はデジタルコンテンツの充実がより加速して、VRのような仮想世界が盛り上がりを見せていくような気がします。そうなったときに、リアルで体験出来ることの付加価値ってなんだろうと問われる場面が必ず来るはずです。いや、すでにずっと来ているはずです。それは子育て世代の多くがそれを実感としていると思います。それこそ文化なんて言えないほど、アナログに価値を感じられなくなる人も少しずつ増えてくるかもしれない。未来の事を考えていくと、今取り組んでいる活動やアナログ的魅力を自分自身が楽しいと感じる感覚をしっかりと研ぎ澄ましながら、自分の中に落とし人に伝えていく作業が必要なのかも知れません。それが最終的に文化となる日を信じて。
ビー玉を文化にするだなんて、かなり大それた発言だと思います。例えば、地元でビー玉が生産している工場があって、それがその地域の生活を支え、やがて文化になる、というような話ならまだわかりますが、そうではない。ビー玉が好きな作家がいて、それをただ色々なカタチで発信している、、というだけにしか過ぎないのですから。でも、今の活動をそういう視点で捉え、活動を続けていくというのもなんだか楽しい気がして考えたりしてます。
文化を考えていくとやはり一人で出来るようなものではなくて、自然発生的に起こるものが文化となるのだと思いますが、スマホを通じて様々なニッチな分野な世界の情報を簡単に手にしたり、YouTubeを通して観たり出来るようになりました。これはひと昔前のような遊び環境には戻れず、個人がそれぞれ好きな分野へ飛び込み没頭する、、という世界になったのです。なので、地元でそうしたコミュニティへわざわざ足を運ぶ必要もなく、文化というものが形成されにくい時代になってきているのではないかと思っています。、、とは言え、ビー玉を文化に出来るほどの影響を自分が身に付けることを考えると、ビー玉に注ぐ人生として一生終えても良いと思えてくるような気がします。現在33歳。この歳でビー玉ばかりを考え、ビー玉を日々触り続けている物好きはあまりいないと思いますが、ふと客観的に自分を捉えると面白い人生じゃないかなと思えてきます。コイツの人生はどうしたらもっと面白くなる?なんて思うほど冷静に自分を見たりもします。そんな自分を面白くも、つまらなくするのも自分の行動次第。本気でビー玉を文化にしたいなら、ビー玉のありとあらゆる面白さを徹底的に分析したり、実際におもちゃに昇華して製品にしたり、マーブルマシンや装飾としてのビー玉の付加価値を高めるような作品作りもどんどん取り組んでいく必要性がある。そう考えると自分の今取り組んでいる活動はそうした“ビー玉を文化に”というキーワードに繋がっているのかも知れません。
この10年のスマホの普及で生活の価値観はだいぶ変わりました。今後はデジタルコンテンツの充実がより加速して、VRのような仮想世界が盛り上がりを見せていくような気がします。そうなったときに、リアルで体験出来ることの付加価値ってなんだろうと問われる場面が必ず来るはずです。いや、すでにずっと来ているはずです。それは子育て世代の多くがそれを実感としていると思います。それこそ文化なんて言えないほど、アナログに価値を感じられなくなる人も少しずつ増えてくるかもしれない。未来の事を考えていくと、今取り組んでいる活動やアナログ的魅力を自分自身が楽しいと感じる感覚をしっかりと研ぎ澄ましながら、自分の中に落とし人に伝えていく作業が必要なのかも知れません。それが最終的に文化となる日を信じて。
男性保育士とおもちゃ作家
男性保育士とおもちゃ作家 2021.12.08
私は中学3年生の頃、担任の先生に「金子君は保育士なんて向いてるかもね」とそんな風に言葉を掛けられたことがキッカケで保育士を志しました。子どもが好きという事もありましたが、他にやりたい事もなく、“向いてるかもな”となんとなく思え、専門学校に進学し、保育士として働き始めました。
保育士時代は担任を持つという事はなく、“フリー”(各クラスの補助保育)として各クラスを回り、子どもたちと過ごすという日々でした。担任ではなくフリーとして働く年数が長かったので、自分の保育展開をしていきたい想いが募り、色々と自分なりに子ども達と関わってきました。オリジナル紙芝居をシリーズで作ったり、泥団子、手袋シアター、パペット人形、かまくら作り、ペットボトルロケット、、、そして、手作りおもちゃ。子ども達との日々の関わりから、色々な遊びを広げていった先が木のおもちゃでした。
現在は手稲区の認可園で保育士として働いています。20代後半に一度保育士を辞め、作家として色々な活動しながら、再び保育士として働くことになるとは当時は夢にも思っていませんでした。現状、人によっては中途半端に見えるような気もします。でも、保育士として働きながら見えてくる視点も沢山あります。育児の大変さや多種多様な子育て環境、社会背景から見える子どもの姿の変化。そうしたリアルな実感は、きっとこの先の作家人生の財産になり得るものだと思います。そして、子ども達の日々の新鮮な感性から刺激を受けて、おもちゃ作りに活きると信じ、しばらく兼業していきたいと思います。
私は中学3年生の頃、担任の先生に「金子君は保育士なんて向いてるかもね」とそんな風に言葉を掛けられたことがキッカケで保育士を志しました。子どもが好きという事もありましたが、他にやりたい事もなく、“向いてるかもな”となんとなく思え、専門学校に進学し、保育士として働き始めました。
保育士時代は担任を持つという事はなく、“フリー”(各クラスの補助保育)として各クラスを回り、子どもたちと過ごすという日々でした。担任ではなくフリーとして働く年数が長かったので、自分の保育展開をしていきたい想いが募り、色々と自分なりに子ども達と関わってきました。オリジナル紙芝居をシリーズで作ったり、泥団子、手袋シアター、パペット人形、かまくら作り、ペットボトルロケット、、、そして、手作りおもちゃ。子ども達との日々の関わりから、色々な遊びを広げていった先が木のおもちゃでした。
現在は手稲区の認可園で保育士として働いています。20代後半に一度保育士を辞め、作家として色々な活動しながら、再び保育士として働くことになるとは当時は夢にも思っていませんでした。現状、人によっては中途半端に見えるような気もします。でも、保育士として働きながら見えてくる視点も沢山あります。育児の大変さや多種多様な子育て環境、社会背景から見える子どもの姿の変化。そうしたリアルな実感は、きっとこの先の作家人生の財産になり得るものだと思います。そして、子ども達の日々の新鮮な感性から刺激を受けて、おもちゃ作りに活きると信じ、しばらく兼業していきたいと思います。
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